茶鏡のブログ

駆け出しのWebデザイナーが文句ばっかりぐちぐちぐちぐち言う日記です。

なぜなんでもない私はブログを書くのか

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みょうに哲学的な内容ですが、私がブログを書いて誰得やねん、とはたと思い立ったので考えてみることにしました。

なんでもない私がブログを書いて、誰得?

私は「週に一回ブログを書く会」というコミュニティに入っています。それのおかげで、約週に一回、無理矢理なポストでも書いているのですが、「書きたい」という衝動みたいなものは、ある気がします。(だから件のコミュニティに入ったってのもある)

まわりをみていると、知見であったり、写真やイラストの作品であったり、本の感想だったりとするのですが、私の場合は一応Web制作の人のブログという事になっていますが、そういう記事はめったに書きません。はっきり言って突出した能力がないからなのですが、、、

世の中には私のような「なんでもない人」のブログが溢れています。自己弁護ではありませんが、なんでもない人の思い出とか気になったこととかが、ああこれいいね、とか私も気になる!って感動できる世の中ってすごくないですか。

では話を戻して、なんでもない私がなぜブログを書くのでしょう。

文章教室

私はギャラリーの文章教室に通ったことがあります。「文章はだれにでも書ける」という教室で、自分の暮らしを見つめ直して、文章に書くことによって、新しい可能性を見出す、そういう教室です。私は文章や詩はからっきしダメでしたが、子どもの頃の良い思い出を見つめるようになったり、抽象画を描くということに挑戦したりしました。文章教室の仲間で、自分の思いを素直でやわらかい詩にのせて歌うことにした人がいます。

言葉は、(書けるかどうかはおいておいて)誰にでも操れる基礎的な表現の手段です。私は絵を書いてる子どもだったので表現することは普通のことでしたが、そうでない人も、たくさんいるわけで。

まず「表現」を始めるには「言葉」はとっかかり。

自分の考えを、言葉に出す

ブログの女王と呼ばれた中川翔子さんは、かつて(いまも?)一日に何度も更新していたブログについて「生きた証」と言っていました。

私がブログを書く理由に、もしかしたらここにヒントが隠れています。私の考えることなんて大したことないのですが、大したことないなりに、考えを発表し、残しておき蓄積していくことが、しょこたんの言葉を借りて「生きた証」となっている。

ブログ記事に対して書き手である「私」にフォーカスされることはまれなことですが、それでも、私の考えは、ここに蓄積されている。

表現の素振りをする

ガチで「表現」をするのには実は時間とパワーが必要です。
自分のことや、伝えたいこと、伝える相手のことを見つめたり考えたりするからです。

文章教室の話に戻すと、過去の思い出や日々の暮らしだって格好のネタです。自分なりに表現をしていくと、ブレイクスルーがあったりと、自分の可能性が見えて、やがて自分の表現に、喜んでくれたり、共感してくれたりする人が現れるのです。

アーティストは表現が自分の飯の種です。だから、表現することを辞めません。すごいパワーだと思います。

ブログの目的にもよりますが、「なんでもない人の自分の考えをためていくためのブログ」は、別段、使うパワーはそれなりでいいと私は思っています。記事として成立させられるのであれば、3行でもオッケーなのです。ようは、表現の素振りみたいなものです。

素振りをしまくる自分を知ってもらう

なんのプレイやねんと思ってしまうかもしれませんが、根本的に日々の思いや考えは、忘れていきます。それを脳みそだけで思い出して見つめ直すのは、大変な作業です。だからこそ、日々、大したことないことでもいいから書いて、蓄積していくのが大事だと思っています。

私のブログなぞ戦略もへったくれもないですが、考えの変化とか、自分が何を大事にしているかが見えてくるのではないかと思って書き綴っています。

明日のちいさなブレイクスルーや、ちょっとした可能性のために。
そして、偶然出会った人へのちょっとしたおみやげになるように※

※本当におみやげにしてもらえるような、役に立つネタも必要ですが。