孤独感
ニートのときに辛い出来事があって、それ以来 「一人でいるのがいや」になっています。 ドクターストップがかかるほど酒浸りになったり、メイドカフェに傾倒しているのもそのせいです。
これまでの人生の中で、「一人でいるのがいや」という状態にあまりなったことがなく、むしろ一人isFreedomだったので、ちょっと不思議な感覚を覚えています。
私はチキンなので、一人がいやだといっても、よほどのことがない限り、お友達をわざわざ呼び出すということをしません。
お友達と会うのももちろんたのしいですが、軽い気持ちで約束する、ということが苦手なのです。
で、勉強会の懇親会とか、打ち上げとか、言ってしまえばすでに出来上がっている内輪というものにも、そっと距離をおいてしまいます。前回書いたような、どう関わっていいのか、イメージができていないからかもしれません。
店員さんとかならいいのか。
そうじゃないということもこの前書いたぞ。
昔の話ですが、お店の店員さんに執着して迷惑客になったことがあります。今は、お店の人も人間だから思いやりを持って!という意識を持つようにしていますが、執着の対象になってしまうのは、いまでも怖いです。
執着はこわいですが、友達じゃなくてあくまで「店員と客」という関係が居心地がいいのかもしれません。 常連とか、ひいては友達になったらそれはそれで嬉しいことですが、多くを求めるのは、良くない気がします。
バーのマスターやメイドちゃんがにこやかに出迎えてくれる、それだけでも充分で、お話もできたら嬉しい。
普通の客として接してもらって、やんわりと埋めてくれたらそれでいいのです。
ただそれでも埋まらない時があって。
そういうときに、SNSに、嫌なら読むなと、どうでもいいことを書いたり、ダメなときはくだを巻いたり。
知らない人に簡単にこんな事ができてしまう、よく考えたらすごい時代。くだを巻いたら、フォロワーを心配させるまたは信頼をなくします。
Webでのつながりについて考えていると、糸井重里氏の「only is not lonely」という言葉を思い出しました。長く、(いまも?)ほぼ日のスローガンとして掲げられていた言葉です。
この糸井氏のコラムは、Webの黎明期に「Webに向かう孤独」について書かれた文章です。
ちょっとだけ、引用します。
ダーリンコラム <Only is not Lonelyについて>
「孤独」は、前提なのだ。 「ひとりぼっち」は、当たり前の人間の姿である。 赤ん坊じゃないんだから、誰もあんたのために生きてない。
それでも、「ひとりぼっち」と「ひとりぼっち」が、 リンクすることはできるし、 時には共振し、時には矛盾し、時には協力しあうことは これもまた当たり前のことのようにできる。
「孤独」は前提で、当たり前の姿。
いつもニコニコしてるあの人は裏では険しい顔をしている。
人間は必ず裏の顔があってそれでいいんだと、カフェの店長さんから教えてもらった。
集団の中での寂しさは、あるけれど、集団の中にいる人にも、多かれ少なかれ、一人の時がある。
もしかしたら、そのことを忘れがちなんじゃないだろうかと。
ひとりぼっちと、ひとりぼっちが、ちょっとしたことでもうまくリンクする瞬間の、うれしさ。
みなさんも経験があるかと思います。
小さいことから、おそれずに、その瞬間を探してみつけたり、じょじょに行動に移していくと、ひとりのときと、誰かと一緒にいるときとの、気持ちのバランスがとれるかも?!
つらつらと書いていて、少しだけ勇気が出ました。